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孝婦佐々木ゆかの碑 |
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佐々木ゆかは文化元年(1804)古殿に生まれた。家は分家のため貧しかったが、人柄は温厚篤実で、僅かな田畑耕作の傍ら、近所の耕作の手伝いや、米搗き、機織、糸つむぎ、洗濯などの賃仕事で家計を支え、両親を大切にし、孝行をつくした。
それらの善行が高く評価され、天保10年(1859)から、明治4年(1871)の32年間に毛利藩庁等から43回の褒賞を授けられた。ゆかは明治15年(1882)5月10日に78才で亡くなったが、佐々木ゆかの善行は、郷土の東岐波の人達にも讃えられ、「孝婦佐々木ゆかの碑」が、明治44年に、当時の東岐波女子同窓会の人達によって建立された。猶、この石碑は周囲の事情によって、2回にわたり移設され、昭和57年5月に現地に移設された。
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花ヶ池、須恵器窯跡 |
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花ヶ池は明治8年(1771)に鼻ヶ浴の谷間を約70m長さの堰堤を築いて造られた。水面積は約1町5反(風土注進案では水面積2町と記されている)、灌漑面積は約22町歩で、主に磯地、岐波方面の水田と云われている。池の西側に古墳時代後期の須恵器窯があり、昭和62年の発掘調査で、窯の一部と杯や壺、提瓶、平瓶等が出土した。 |
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蔵田好直の墓 |
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蔵田静馬好直は、毛利藩家老の国司氏の家臣であった蔵田家の一子として楠木、万倉で生まれた。弘化2年(1845)41才の時、磯地の部坂市之丞に実直な人柄と学才を見込まれ、乞われて、磯地に移り住み、現、向陽小学校跡付近で私塾を開き明治6年(1873)までの27年間、近郷の子供たちを指導し、明治19年行年83才で逝去した。この墓は、その門弟達によって建てられたものである。 |
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東岐波役場跡 |
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明治15年から昭和26年8月までの69年間、東岐波村の行政事務を行う役場のあった場所である。明治4年の廃藩置県後、庄屋制度から戸長制度となり、明治8年に古殿に初めて岐波村の戸長役場が開設された。しかし明治12年に、その戸長役場の建物が焼失し、その年の10月、岐波村は東岐波と西岐波に分かれたが、東岐波村の役場業務は当時の戸長であった磯地の部坂市之丞宅に移された。明治15年に東岐波村役場が新築され、その後、昭和26年8月に、花ヶ池湖畔に村役場の建物が新築されるまで、東岐波村の役場業務は、この磯地五反田川の側にあった建物で行われたのである。 |
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西福寺 |
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真宗法輪山西福寺の開山は、伊豆の伊藤三郎佐ヱ門尉祐綱である。文安4年(1447),本願寺の如上上人の弟子となり慶祐という法名をもらい、文明5年(1473)に磯地に草庵を結んだ。寛永11年(1634)に三世(教円)の時、本願寺より西福寺の寺号を受け、本尊として阿弥陀如来の木像を許され、正式に寺院となった。現、高至師住職は18世である。
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部坂神兵衛正恒頌徳碑 |
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宮脇川(五反田川)が植松川と西福寺の東側で合流し、付近は、大雨のたびに水害が多かった。明治4年から明治8年にかけて、岐波村の庄屋や副戸長を務めた部坂神兵衛正恒は村人を指導して、明治5年に、宮脇川の流れを植松川と分離し、水落までの延長約900m、幅3.6mの水路(五反田川)を造り、水害を防いだ。正恒の顕彰碑は昭和35年に建立された。 |
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地蔵像(花園) |
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石の地蔵像の本体高さ約145cm、台石を加えると総高、約2.7m程であり、東岐波内では最大の地蔵像である。享保年間(約290年前)頃、毎年の様に暴風や大雨、旱魃等に見舞われ農作物の被害や多くの病人や死人も出た。これらの苦しみからの救いを願って、享保8年4月に、当時の花園の人達によって建立された地蔵様だとも伝えられている。 |
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花園小学校跡 |
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岐波村(東岐波と西岐波)の最初の小学校である花園小学校が、明治6年から、明治16年まであった所である。校舎は茅葺の借家と枌葺きの新築の2棟で、合わせて、178.2uの広さであった。猶、ここには万延元年(1860)から明治6年まで、野村善一が指導していた寺子屋野村塾があった所である。 |
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長安寺(跡) |
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弘済寺文書によると徳治3年(1308/)頃、弘済寺の末寺として存在し、風土注進案には「観音堂」「牛馬祈祷寺是也」と記してある。古老の話では、明治〜大正の頃、お堂に尼さんが居たとのことである。長安寺のお堂には馬頭観音を厨子の中に祀ってあり、昔から牛馬祈祷として近郷では有名であった。しかし現在は馬頭観音ではなく聖観音が祀ってある。これは太平洋戦争中、軍に徴集され、返却された時、入れ替わったのだと云われている。観音堂の前に吊り下げられている鉦鼓は享保10年(1725)に岐波浦の古谷父右衛門が寄進したものである。 |
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向陽小学校跡 |
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花園の小松原にあった花園小学校が手狭になった事と、東岐波村の中心でない事等により、明治16年に新築移転して、校名も向陽小学校と改称した。4年後の明治20年10月に磯地の立山の現在の場所に移転した。猶、向陽小学校のあった所には、それ以前、弘化2年(1845)から明治6年4月まで、蔵田静馬好直の私塾のあった所である。 |
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庄屋野村家屋敷跡 |
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庄屋野村家屋敷又は野甚屋敷とも呼ばれている場所である。此処には貞享年間(1684〜1688)頃、岐波村の庄屋をしていた野村甚衛門の家があったと云われ、又、その野村家の子孫に甚衛門と名乗る人が2人いて、一人は天保4年(1833)から天保12年まで、いま一人は嘉永7年(1854)頃に庄屋を勤めていたとも云われている。 |
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鬼門大明神(祇園社)碑 |
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高さ40cm、幅30cm程の石造物の正面に文化十才、鬼門大明神祇園社、十一月十日の刻字がある。この石造物(碑)は「地神」だと云われている。屋敷の、鬼門《丑寅(北東)の方向》の厄除けとして祇園信仰の牛頭天王(素戔鳴尊)を祀ったものだと云われる。 |
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刑場跡 |
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中世の頃の刑場の跡で、罪人の仕置場があったと云う伝説がある場所である。小字名が古殿と呼ばれる地域であるから中世の地頭か豪族が住んでいたと云う伝説も当然と思われる。周囲には、門田(荘園名主の直営地、堀の内、土居とも云う)、馬場村、馬場崎、ワタウチ(渡射?)、向い坂、ヤカタノカド(館の角?門?)等、中世の名残りらしい地名がある。 |
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秋葉社跡(祠) |
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観音開きの石祠の内部正面に「秋葉三尺坊大権現」と刻字があり、祠の裏面には「文化十三年子八月吉日」と彫られている。この秋葉様は古殿の長原と郷の人達が防災と五穀豊穣を願って祀ったものだと云われ、文化年間から昭和18年頃まで、毎年7月と11月頃に長原と郷の人達が集まって祈願祭を行い、当家(とうや)で親睦宴会等も催していたとの事である。 |
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佐々木ゆかの墓 |
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立山の西端にある郷と長原の一部の人達の墓地の一角に佐々木ゆかの墓碑(石)がある。現在、墓碑は新、旧2基あるが、各々墓碑の正面には「釈妙眞信女」とあり、旧、墓石の左側面には佐々木市兵エ娘ゆか、右側面には明治十五牛五月十日と刻字されている。 |
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