東岐波健康ウォークマップ史跡概要(案内)
古尾八幡宮 赤コース(
4.6
km)
平成
19
年
8
月
23
日
東岐波郷土誌研究会 吉村富雄
スタート、ゴール
12古尾八幡宮
天平勝宝8年(751)厚東氏白松太夫武綱が、宇佐八幡宮の分霊を迎えて、社殿を古尾の地に建てて賀宝庄(佐山、阿知須、東岐波、西岐波)の鎮守として祀り、古尾八幡宮とした。
天福元年(1233),15代大内弘貞の頃、古尾八幡宮は北方と南方に分かれ、東岐波の人達は南方八幡宮を氏神とした。
明治12年に岐波村が東岐波と西岐波に分離したので、東岐波は明治19年(1886)に南方八幡宮末社稲荷神社を氏神としたが、明治34年に届出等を怠ったため無格社となった。
そこで、ZZ明治43年に、豊浦郡内日村(現下関市)の大河内八幡宮の遷座を請い、東岐波内各地の小宮(各鎮守社)を合祀して、古尾八幡宮と改称し、明治44年に中須賀より現地に遷宮し、現在に至っている。
主祭神は応神天皇(品陀和気尊、又は誉田別尊の名称あり)と宗像三女神(田心姫命、 津姫命、市杵島姫命)である。
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波雁山製塩遺跡
波雁山製塩遺跡
昭和33年頃から、波雁山の西南側が砂取場となり、赤褐色の土器片と短い丸い棒状の焼き物が出土する様になった。
昭和36年4月と12月発掘調査し、赤褐色の土器は製塩用の土器で、棒状の脚の付いた碗形土器に塩分の濃い海水を入れ、砂に立てた状態で煮沸して結晶塩を取り出すものであった。
古墳時代後期(6〜7世紀)頃の製塩遺跡である。
製塩土器は美濃が浜式土器と呼ばれ、猶、祭祀用と考えられて滑石製の馬や、鳥型の模造品、ミニチュア土器、土製勾玉、スプーン型土製品等が出土している。
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波雁山避病院跡
黒崎海岸辺に、明治13年に建設された避病院があったが、明治30年県令第56条により完全なる隔離病舎を要することになっていたが、村財政の面で延期された。
明治39年3月30日に、波雁山隔離病棟が新設され、黒崎避病院も移設して、波雁山避病院が発足し、昭和20年に閉鎖され解体された。
猶、この避病院の敷地は、540坪、建物総面積は約100坪程であった。
隔離入院の対象病は、腸チブス、赤痢、ジフテリア、コレラ、肺結核等であった。
N
租税倉跡(水落御蔵、社倉跡)
水落地区の一角に、藩に納める米等を貯蔵する倉があった。それに、村方で運営する社倉と呼ばれる、旱魃や水害時の飢饉に備えて穀物等を貯蔵する倉があった。
これについては防長風土注進案に「水落御蔵=但四方練堀、梁行3間半 桁行1間 小麦藁葺。同所社倉=但四方練堀、梁行2間 桁行5間 勝手瓦葺」の記述がある。
O
八十七番大師堂と五反田古墳群跡
白松88箇所は、佐山の菩提寺十六世赤城法印が佐山、井関、東岐波、西岐波4ヶ村亘り、明治28年3月に開起した大師堂(札所)である。この五反田の大師堂は、その中の87番札所である。
五反田古墳群は現在のJR宇部線のガード付近一帯に散在していた古墳時代後期の横穴式古墳群である。
大正13年(1924)宇部鉄道を建設する時に破壊され、遺物としては須恵器、鉄刀、人骨等が出土している。
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古尾八幡宮旧社地
天平勝宝3年(751)に厚東氏四代白松太夫武綱が、宇佐八幡宮の分霊を勧請し、賀宝の庄の鎮守として社殿を建てて祀った場所と云われる。
この地名から神社は古尾八幡宮と呼称されていたが、天福元年(1233)に北方八幡宮と南方八幡宮に分離した。
昭和58年11月17日、東岐波郷土誌研究会の旧社地顕彰の提案により現古尾八幡宮の総代会始め多くの賛同者が協力して、古尾八幡宮旧社地の碑を建立し、同年11月27日に旧社地顕彰完工報告祭(完工式)を開催した。