東岐波健康ウォークマップ史跡概要(案内)
  Goppoええぞな 赤コース(5.4km)青コース(4.9km)

平成19325
東岐波郷土誌研究会 吉村富雄

スタート、ゴール  Goppoええぞなクラブハウス(旧東岐波漁協会館)
 「旧魚市場跡」は昭和40年に漁港整備事業の一環として、丸尾港内海岸が整備されたとき、旧西の浜一帯を埋立て建設された。
 敷地面積は約0.26fある。建物は荷捌き所(魚市場)床面積約160u、水槽場70u、作業場(集会場兼用)120u、組合事務所は2階建て各階88u程の面積がある。昭和45年に各施設が完成し、平成13年2月に現魚市場が建設開業されるまで使用された。

71 車海老養殖場
(旧蝦類畜養池)
有限会社宇部車海老養殖場 敷地は約4f余りある。沿岸構造改善事業の一環として建設、昭和41年6月に完成、12月に4,500匹を東京方面へ初出荷、以来、毎年10〜12d程度 10月〜2月にかけて出荷している。
 また、三神社半島の直ぐ南側に昭和2年に蝦類蓄養場として築かれた池、面積約5,000uがある。旧錦波水産が平成2年5月まで使用していたが、現在は宇部車海老養殖場が併せて使用している。
72 新浦瓦工場跡 面積は約2,000uあった。明治20年頃河野勉吉が黒瓦製造窯を建設し操業、明治30年から昭和17年まで国分平一が操業し、瓦窯が2基有った。昭和17年8月27日の台風で破壊され廃業。
73 原谷煉瓦工場跡 敷地面積は約3,500u、明治41年原谷宇太郎が建設操業、赤煉瓦の製造原料は赤土、サク土(砂質土)とドン粉(砂)等を使用していた。昭和30年頃廃業。
74 大須賀遺跡 昭和21年頃、民家建設(芋タンポ作り)の折、石棺らしきものを発見、以後昭和28年2月に発掘調査以来、昭和34年11月まで、5回に亘り発掘調査され、組合せ箱式石棺11基、大型壺棺1基銅鏡1箇、石蓋亀棺1基、合口亀棺1基、鉄剣1箇、その他数多くの小型壺、高杯、杯蓋、朱砂、人骨等が出土している。この遺跡は古墳時代前期の遺跡である。
70 丸尾三神社 延宝8年(1680)に丸尾築港の折、港の守護神として豊後の国から勧請され、祭神は住吉大明神、厳島大明神、八大龍神の3体である。
 大正末期頃道重大僧正がこの地を訪れ、風光を賞して「松涛苑」と嘆賞され、昭和の初め頃は「住吉公園」とも呼ばれていた。三神社の森の一角に、古墳と言われる小さな石棺らしいものがある。
75 教員保養所跡
豊国繊維丸尾工場跡
敷地面積は約2,000u、昭和13年12月山口県教員保養所として赤瓦葺き屋根の2階建の棟(寝台数100人分)が建設された。
 昭和21年5月から昭和23年8月までの間、山陽荘病院がニュージランド軍駐留接収のため山陽荘病院業務が移された。
昭和31年に教員保養所業務は防府中央病院に移され、昭和42年9月から大阪に本社がある豊国繊維株式会社が丸尾工場として使用、平成10年10月に閉鎖した。
G 煉瓦用土採取場跡 原谷煉瓦工場用の赤土採取場として、明治41年から採土を開始、大正7年からは丸尾煉瓦工場(吉南煉瓦工場)用としても採土された。(年間1,000d〜1,400d程度採土されたと思われる)昭和45年廃止された。
H 静和荘(保健福祉センター) 昭和43年11月1日に山口県立精神病院静和荘の名称で、建設開業。
91 青面金剛像 凝灰岩製の高さ50p程の像である。船形背光,六臂(ひ)臂(ひ)で下に邪鬼が横たわり、その下に見ざる、言わざる、聞かざる、の3猿が彫られている。
 丸尾原(畠田周辺)の人達の守庚申及び農耕の守護佛として、祀られたと云われる。「天明二寅十二月八日」の刻字がある。
K 道標(みちしるべ) 「東丸尾道、西トコナミ、新川ミチ」と刻字された石碑がある、その裏面には「正木 ヤナギ 心出し」と彫られている。明治の初め頃〜中頃に建てられたと云われる。
90 宝篋印塔(ほうきょういんとう) 高さ80pの石塔、「文化二年乙丑(きのとうし)四月日」の刻字がある、塔の四面に凡字が彫られている。隅飾の耳が横へ反りかえっているのは、江戸時代中期の特色と云われる。
当初は宝篋印陀羅尼を納めた塔と云われるが、後には一般の供養塔としても使用。この塔の被供養者は不明。
92 大神宮遥拝所灯籠 「天保十一年庚子十一月吉日 月参講中」と刻まれている。伊勢神宮の分霊を祭祀した、山口の高嶺大神宮を畠田の豊穣祈願のため遥拝する所として、建立したと伝えられる。
93 由達がわ 昔旱魃続きのとき、親孝行の「ゆうたつ」と云う男の子が病気の父親に冷たい水を与えようとして、湧き水を探していた時、低地の一角にこんこんと水が湧いているのを見つけた。その水が湧いている所を由達がわと呼ぶようになったと云う話が伝えられている。
94 青面金剛(碑) 高さ70p程の花崗岩の青面金剛像である。建立年月は不明(丸尾原櫻田正明さん宅南西の木立の中にある)。
89 弘中塾跡 高井安一さん宅の南西方に広中屋敷と呼ばれる、櫻田高祥さん所有の水田がある。そこに弘中純一の私宅があったと云われている。
 弘中純一は明治2年から花園小学校が開校する明治6年まで、私宅で私塾を開き、更に、明治6年から明治9年までは小学私塾、明治9年から明治16年まで、向陽小学校の丸尾原分校として丸尾や丸尾原の児童に読書、習字、算盤等を教えた。
その後、明治16年金山に、東岐波尋常小学校金山分校の校舎が建てられ、そこで明治20年に分校が廃止されるまで弘中純一は子供の教育をした。
87 製塩所跡 荒神山は約2ヘクタールの面積がある。その北側寄りに巾10m、長さ20m、深さ3m程の煉瓦組立の水槽が残っている。これは大正11年に日本製塩株式会社が製塩場を作ろうとした跡である。
 製塩方式は、網の浦より海水を荒神の水槽に汲み上げ、高さ15m程の高架槽を通して海水を濃縮し、煮詰めて製塩する方式であった。
 煮詰炉用の高さ約20mの煙突(煉瓦組立)も、60m余り離れた丸尾寄りの畑の中に建てたが、操業に至らず製塩所は昭和2年に閉鎖した。
88 荒神祠 荒神山の木立の中に荒神様の石祠がある。(潅木や茨が茂って現在は荒神祠に近づけない)
86 法秀様 天保年間頃、丸尾の東仙寺に寄宿していた旅僧で、薬草の知識があり、多くの病人を救ったと伝えられる。
晩年は癩(らい)病を患い、東仙寺の縁の下で他人を寄せつけずに死亡したと云う。後に地元の人達が石佛像を造って供養した。
 炒り豆を供えて祈願すれば疣(いぼ)等の皮膚病や眼病の快癒に霊験が灼か(あらたか)と云われてきた。
 現在では、あらゆる願い事にも霊験があるとして、多くの人達が参詣している。
85 スレート工場跡 大正7年に寺岡作一、名賀杖一、今橋哲亮、浅野熊一諸氏の共同出資で、吉南煉瓦製造所が建設され赤煉瓦が製造された。大正14年から原谷宇太郎氏の経営となり、さらに昭和14年から大阪の大沢良吉の経営、昭和25年から再び原谷家の経営、昭和29年から昭和45年まで「有限会社原谷窯業」の名称で煉瓦が製造された。年間製造能力は昭和25年頃約60万個程度であった。
84 煉瓦工場跡 大正7年に寺岡作一、名賀杖一、今橋哲亮、浅野熊一諸氏の共同出資で、吉南煉瓦製造所が建設され赤煉瓦が製造された。大正14年から原谷宇太郎氏の経営となり、さらに昭和14年から大阪の大沢良吉の経営、昭和25年から再び原谷家の経営、昭和29年から昭和45年まで「有限会社原谷窯業」の名称で煉瓦が製造された。年間製造能力は昭和25年頃約60万個程度であった。
97 煉瓦工場跡(永ヶ久保煉瓦工場跡) 明治30年、笠井順八が永ヶ久保に煉瓦工場を建設。大正6年から寺岡惣治氏が経営、昭和11年頃廃業した。
 永ヶ久保海岸の南側に澪と呼ぶ煉瓦運搬船用の水路があり、そこには繋船用の縄を懸ける杭を立てた穴のある岩がある。
95 瓦工場跡 明治の初め頃、山藤長太郎と瓦屋長兵衛が瓦工場を創立した。昭和30年頃、瓦工場は廃業された。
96 砂山古墳 昭和38年に発掘調査された横穴式石室の単円墳であり、古墳時代の後期七世紀頃のものと云われている。
 玄室と前室が一体となっているのが特徴。副葬品は長さ6a程の尖根式鉄鏃が1個発見されただけである。
98 天満宮 三軒家の天神様とも呼ばれ、三軒家と永ヶ久保付近に住む人の生活守護神である。天満宮は天神山と呼ばれる広さ600u程の森の中に祀られている。天神の森の入口には明治12年に建立された石鳥居があり、境内には天保13年に建立された石灯篭がある。天満宮の石祠には天保9年(1838年)と刻まれている。天満宮の祠の両脇に八王子様(まむし除けの神)と秋葉様(火伏せの神)の自然石の塔がある。
昭和の初め頃までは旧暦10月15日を祭日として神事と相撲が行われていたが、現在は10月15日に天神山の地主松永武人さんが宮司を招いて祭祀をされている。
99 荒神社跡(丸尾原荒神社跡) 南ノ尾の南側に荒神山と呼ばれる所あり、そこに荒神社があったと云う。風土注進案によると1間四方の茅葺の御殿、桁行2.5間、梁行9尺の舞台があったとされ、祭神は澳津(おきつ)彦命、澳津姫命、大上神となっている。
 明治43年に古尾八幡宮に合祀される以前は、毎年旧暦の9月13日に祭礼が行われていたと云う。この荒神社は一般には地荒神(屋敷や氏族の守護神)を祀っていたと云われ、その石祠が現在、上田竹雄さん宅の庭に安置されている。
100 荒神社跡(八谷の荒神社跡) この荒神社のある地名は祢木根である。荒神社跡には額束に「荒神」、柱に「奉寄進 寛政11未9月15日」と刻まれた石の鳥居と三宝荒神と刻まれた石祠が残っている。
 明治43年に古尾八幡宮に合祀された後、八谷付近の人達は火伏せの神として秋葉様を祀って、一年に一度神事と祭り行事(宴会等)を昭和20年頃まで行っていたとのことである。
77 丸尾崎番所跡 延宝8年に丸尾港が開かれた時、港を管理するために藩の番所が設けられた。港に出入りする船舶の取り締まりや、運上銀の徴収事務も行っていた。
 番所の敷地は約1,000uあったと云われ、現在番所の名残として井戸が残っており、花崗岩製の井桁には「天保七年申十二月 河内勇左衛門在中、調主部坂市之丞」と刻まれている。
78 越荷会所跡 文政11年(1828)丸尾波止の改築に併せ、庄屋部坂発蔵が藩に願い出て開設、主として船積み用荷物の保管(倉庫業)による収益を目的とし、この収益は丸尾波止の改築費の借入金の返納に当てようとしたのであった。事業は廃藩置県に至るまで行われた。
79 恵比須神社(祠) 豊漁と海上安全の神として、天明4年(1784)に石祠を造り、恵比須様を祀ったものである。毎年旧暦6月17日(最近は旧暦6月17日に近い土曜日)に十七夜祭管弦祭が行われる。
80 丸尾港の埠頭(波止) 延宝8年(1860)に上ヶ関より赤間ヶ関の間の海上避難港として、防波堤を築いて新泊港の呼び名で開港したが、幾度か嵐のため、破損と修理を繰り返した。文政9年に当時の庄屋部坂発蔵が波止の根本的修理を藩に願い出て、文政10年から11年にかけて三保虎五郎らと力を合わせて築き上げた防波堤である。
 費用は銀125貫と云われている。長さ120間、高さ3間、幅は水底部が9〜12間、上部が2間である。築堤の石組は長石植組法と呼ばれ、ロシア、サンクトペテルブルグ市のネヴァ河口にあった某砲台と同じと伝えられる。
81 弘済寺(万松山弘済寺) 天平勝宝時代(751年頃)からの古刹で開山は不明、殆んど廃寺になりかけていた頃、文永5年(1268)萩の亨徳寺3世法灯国師が西岐波の上の原に再興したと伝えられる。
亨保2年(1717)に弘済寺の末寺として東仙寺が丸尾崎に建立され、明治4年の寺社分離の時、上の原の弘済寺を東仙寺に移し現在の弘済寺とした。
 明治35年に本堂が改築され、平成元年に屋根の葺き替え、護寺会建物、庫裏、炊事場等が更新された。
 宗派は、最初は天台宗、その後臨済宗となり万治元年(1658)に曹洞宗になったと云われている。本尊は観音像とされ、境内には薬師堂や宝篋印塔等がある。